理屈でスピリチュアル

開運えみこ・スピリチュアルと毒親を理屈で語ります

なぜか不思議と上手く行く、運を人生の味方につけるFBグループ https://www.facebook.com/groups/1872391646508515

稲荷神社はたたるのか?~その③その他系

ではもう一つ、三個目の「稲荷系」がたたるのでしょうか???

 

もう一つの三個目の「稲荷系」。

 

こちらは純粋に「稲荷」「田の神」「田の神の使い」を祀っているもののようです。

最初に横においておいた「狐」。「山の神の御使い」系ですね。

 

『古来の稲荷信仰は「稲荷」ではなく「稲生り」であり純粋に五穀豊穣を祈るもの・・・

「春に山の神が里に降りて来て田の神となり秋の収穫が終わるとまた山に帰る」といわれた古来の信仰。

ここでも「狐」は田の神の化身だとか神の御使いという扱いだったようです。』のお狐さん。

 

そう、純粋に

「田の神」「田の神の使い」を祀ってある「稲荷」も

日本のそこかしこにあるようです。

 

*狼も同じく「田の神の使い」とされていますが、おそらく狐よりも「群れ」で山中に過ごすことが多くて人里に下りてくることがなかったのでは?・・・で、神格化されることが少なかったのではないかと思います。

狼を祀っているのは、八百万の神々を祀る日本では珍しく、全国で20あるかかいかくらいなのですヨ。

これを追求するとこれだけでまた20日間検索するかもしれないので、「狼」を祀っているのは霊峰が多いから、たぶんこんなことだろうって推測で、終わりにしておく。

 

ここからも推測ですが、

古来からの「田の神」の「使い」である「狐」が「人里でなんらかの死」を迎えたときに山に戻して葬ったとか、そんなことが「田の神の使い」=「狐」を「祀った」始まりなのではないかな。

 

この「なんらかの死」の「死の内容」によっては「狐はたたる」という「現象」が起きる可能性は大きいと思う。

 

例えば、天災で大凶作が起こった時「田の神」の「使い」だろうがなんだろうが獲って喰ったに決まっている。

 

自分や子どもが飢えて死ぬかもしれない瞬間にはそれはただの「食べ物」だと思いませんか?

わたしだってそんな事態にはきっと飼い猫をひねって子供たちに食べさせると思う、そうして泣きながら自分も食べる。(笑)

 

古来から一族が大事にしてきた「田の神」の「使い」を殺して食べる。

そこに、「人間側の罪悪感」がおきないわけがない。

「田の神のたたり」をおそれて「稲荷」として祀った可能性は高いですよね。

 

「狐や狸が人をだます」といのも、

このあたりの「人里でなんらかの死を迎えた狐」(狐に似た尻尾を持つ狸)を

葬った「罪悪感」あたりからきているのではないだろうかと推測します。

 

*そういえば「タヌキ汁」は聞くけど「狐鍋」「キツネ汁」って聞かないなあ。

東北では意外と最近まで「犬鍋」ってあったけど・・・

この「犬鍋」が「狐」だったとしたら、東北方面には「稲荷神社」って少ないはずだけど・・。

いや、ここももうこれ以上は追求しない(笑)

 

それと気になるのは「商売繁盛」ですよね。

 

もともとは

「農耕の神」

「田の神」

「五穀豊穣の神」ではあったけど、

 

今は

「商売繁盛」

「万病平癒」

「学業成就」果ては「安産」までのご利益があるといわれています。

特に赤坂の豊川稲荷別院はこれまたすごいですもんね。

(伏見系も豊川系もその他系も、商売繁盛込み、です)

 

江戸時代には「正一位稲荷大社」「豊川稲荷」は

「商売繁盛」の神様として各地への勧請が流行ったそうです。

江戸では花町にまで勧請されたのだとか。

そうして、庶民派も参りやすい神様になっていったようですね。

 

ようするに、

稲荷系の神社は庶民官民問わず多くの人間が

「江戸時代」から長い間

「ご利益を求めて詣でる人気の神社」ということです。

 

「ご利益を求めて詣でる人気神社」・・・ようするに人が沢山来るわけです。

江戸時代からの人気ということは、とんでもない人数が詣でているわけですよ。

 

そう、とんでもない人数が「自己の利益」の御祈願に来ているわけだ。

 

「商売繁盛」=「ご利益」≒「我欲」の

「想念と呼ばれるもの」≒「エネルギー」だとすると、

「稲荷系」にはとんでもない質量の「我欲の想念」が渦巻いていると思いませんか?

 

日本各地で積み重なった、

「誰よりもお金が欲しい」

「自分の現世利益の追求」

「自分中心の考え方の想念」。

 

この「我欲の想念」に

「詣でた人間の気持ちがリンクした場合」「見返り」が発生する。

って、思いませんか!?そりゃ発生するわな。

ってか、自業自得っぽいよ(苦笑)

 

つまりですよ!

その稲荷は「どこ系の稲荷」で「祀った理由」がどこにあったのかっていうよりも

「勧請側」や「参拝者側」の「個人の意識」が「どこにあったのか」、「どこにあるのか」にものすごく影響を受けているのではないかということです。

 

つまり・・・

「あなたの意識は「今」どこにアクセスしていますか?」ということ。

「あなたの在り方は「今」どんな在り方なんですか?」ということだよね。

 

稲荷神社は「たたる」「見返りを求める」から参拝不可なんて簡単な話ではないということですよ。

神様のせいにしちゃいかんよね。

 

*ヲイ、「たたる」とか「見返りを求める」から「参拝No」っていってるヤツ、

即効謝っとけ、お稲荷さんたちは「たぶん」怒ってないから。

 

そう、そうなんだよ。

 

実態を持たない「神様関係」が

こちら側にちょっかい出そうとしたら、

やっぱり「生きている人間」と「人間の意識」が必要なんだもの。

 

わたしの「この理屈」で言ったら、「稲荷」だけでなく、「どんな神様」も「参拝不可」な「人間」が山ほど出てきちゃうわね。

参拝のお作法がどうこうの問題じゃないってことですね。

 

つまり

稲荷系のみならず、神様に参拝する場合

「罪悪感の無い自分」であるべし、

尚且つ、

「私利私欲に走らずに皆の幸せ、皆の成功を祈れる自分」であるべし、

そうゆうことですね!!!

 

あとさ、「ほうれんそう」って

やっぱりコミュニケーションの基本でしょ?

末永く良いお付き合いをしたいなら、

人間にだって、神様にだってそれ、怠っちゃだめよね。

~~~~~~~~~~~~ 

 

これ、調べるのに一ヶ月以上かかってんのよ(笑)

もちろん一部、ナカイの推測も入っていますし、

スルーしているところも多々ありますけれども~~。

そこを考え始めると夜も眠れなくなったり、

うざいスピリチュアルな話になったり、

大学院レベルになってしまうので、

ナカイの持論に納得いかない人は自分で勝手に黙って調べてくださいね(笑)